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ポストモダン実験作としての「ぽてまよ」  

「ぽてまよ」とは、なんだかよくわからない生物を中心とする物語ですが
ぽてまよが何なのかをあえて説明して見せないところが
「ぽてまよ」という作品の魅力を構成する最大要素であると思います。



「ぽてまよとは何なのか」という問いかけは、つきつめていくと
「ぽてまよを見ている私とは何か」という問いかけに他なりません。

ぽてまよが朴訥な主人公に抱きしめられて満面の笑顔を見せるとき
我々も主人公の笑顔を通じて自己自身が充足されている事実を発見する。
感情表現の乏しい主人公がぽてまよに対して笑顔を見せるとき
初めて我々は神として、あるいは他者としてのぽてまよに拠って
主人公と同化してこの世界に存在することを「許可される」のです。

この物語構造は日本のアニメにおいてはわりと伝統的なもので
異種間コミュニケーションを主題とする作品群、代表的なものでは
「となりのトトロ」や「あらいぐまラスカル」などで語られる
自由主義的な「他者論」と源流を同一にするものです。

しかしトトロやラスカルがグノーシス的な二元論でいうところの
「象徴的な善」であり、最終的に理解可能な救済を与える神であったのに対し
ぽてまよは空間的な意識の拡大の結果として表象した「他者」であります。

宮崎駿は「ハウルの動く城」などで超自然と自然、戦争と平和、善と悪などの
グノーシス主義的な二元論の克服を試みていますが、
「ぽてまよ」はその宮崎駿が挑もうとしている世界観と最初から地続きです。
「ぽてまよ」が先行するマスターピースと一線を画するのは
入り口が「萌え要素」になっている表面上のギミックとしてではなく
この近代的で革新的な一点に関してのみ。

「ぽてまよとは何か」という説明を意識的に排除することによって
「ぽてまよを見ている私とは何か」という真の問いかけを留保し
「私たちは共存を許されている」という傲慢な満足感と
無限の肯定のみを浮遊する我々の内面に与えてくる。
だから見ていてなんとなく気持ちがいいし
ずっと見ていたい衝動にかられていく。

この「なんだかよくわからないもの」を「とりあえず寛容する」ことにより
世界にはぽてまよとぽてまよを見ている主人公がいて
その世界を我々が俯瞰することにより我々が得られる幻想的充足が
実は我々自身のナルシシズムを刺戟しているのです。

これは作品の作り方としては非常に姑息でズルく、
しかしどうしようもなく魅力的で抗いがたいものであることは確かです。


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