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健康第一

アニメバブルについてちょっと説明  

前回のエントリーに関する話なんですが、
2006年になんであんなにいきなり作品数が増えたのって聞かれまして
ついでなんで若い人向けにごく簡単に経緯を説明しておきます。
ていうか中学生向けに書いてみます。



アニメってのは通常、版権で商売します。これは手塚治虫が作ったモデルです。
最初はお子様向けのオモチャやお菓子の売り上げのライセンス収入などでした。

バブルの崩壊というのが90年代の最初にあって
どんどん会社が潰れました。
生き残ったオモチャメーカーやお菓子メーカーも
あまりアニメ製作にお金を出せなくなった。

従来ロボットアニメというのはプラモやオモチャで儲けるアニメだったのですが
スポンサーになってくれる会社がなかなかみつからないのでアニメを作れない。

そこでガイナックスという当時からかなりトガっていた会社が
レコード会社と組んで作ったアニメが95年の「エヴァンゲリオン」です。
この作品でオモチャではなくビデオソフトや音楽CDで資金を回収する仕組みができた。

レコード会社も版権が欲しかったわけです。だから映像分野に手を出したかった。
音楽はどんどん売れなくなっていきましたが、映像ソフトに進出したおかげで
現在に至るまでレコード会社というのはほとんど潰れていません。

この「エヴァンゲリオン」という作品がちょっとクセのある作品だったため
若者向けサブカルチャー誌の「クイックジャパン」が特集で取り上げ
それによって一般人気に火がつき、久々の大ヒットアニメになった。

この大ヒットに目をつけた海外市場が軽い争奪戦状態になり
それまで安く買い叩かれていた日本アニメが
「エヴァ」で初めて1話1万ドルとかで売れたわけです。

これで、できあがったアニメを「海外に(高く)売る」という収益方法が増えた。
そして99年に「ポケモン」が北米でTVシリーズ・劇場版で総額100億円を越える
記録的なヒットを飛ばしたのです。

このヒットが持続している間に「AKIRA」が北米DVDチャートで1位になるなどし
「日本アニメは世界で大人気!」みたいな話になりました。
まあ、そういう報道はいつも大げさなんですが。
ジャパニメーションなんていうよくわからない言葉もはやってましたね。

2003年に「千と千尋の神隠し」がアカデミー賞長編アニメ映画賞なんかを獲り
これ以降2004年までは日本アニメも1話4~8万ドルで取引されるなど
この世の春みたいな勢いでした。ぶっちゃけこの頃がピークでした。

日本のアニメは、当時はとにかく作れば買い手はつくという状況だったため
2005年までは投資投資でドッカンドッカン作りまくる状態だったわけです。
これが2006年にいきなりタイトルが増えた主な理由です。要するにアニメバブルです。


ただ、買い手がついても全部がお客さんに売れていたわけではなく
北米に限らず在庫の山を抱えて倒産したライセンス会社もありました。
売れていたのは、日本アニメに追い風が吹いて期待値が膨れ上がり、
それが投機マネーを呼び込んだからであり
2006年以降北米のDVD市場が伸び悩むと
とたんに一部の人気作品以外のアニメは放送局からも流通大手からも締め出され
現在の日本アニメは縮小しつつ新しいビジネス展開を模索中、といったところ。
ちなみに今現在の海外での単価は人気作品でも1話2万ドルがいいとこだそうです。


以上簡単な説明おわり



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category: アニメ

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アニオタ同士はきっとわかりあえない。  

このエントリーはそんな大した話ではないです。


Ask JohnふぁんくらぶさんのMOEに関する記事を読んでいて
ああなるほどと思ったのでちと紹介を

以下引用

>要するに歳を積んで視聴経験豊富なANIMEファンにとって
>ダークでヴァイオレンスなANIMEの売りである熱いカタルシスは
>そんなに要り様ではないわけです。
>長年に渡りANIMEを見続けてきたOTAKU、ANIMEに深くなじんだOTAKUは
>もっと軽めでロマンチックで心温まるMOE作品に傾くのが自然に思えます。
>ダークで武骨な作品ならもう山のように堪能してきたのだから。


3月27日にAJA(日本動画協会)が「日本のアニメーションの歩みと国際比較」と題した
産業統計データのネット公開を始めた(TAFでパネル展示されたものらしい)のですが
この中の「テレビタイトル数の推移」というのを見てたら、06年をピークに減少傾向に
あるとはいえ、今だに年間300タイトル近い新作が発表されてるんですね。


AJA(日本動画協会) ,データpdf

06年は「涼宮ハルヒ」が発表された年ですが
あのアニメはYouTubeの黎明期とちょうどドンピシャに重なって
95~98年のエヴァブーム以降離れていた層をアニメに引き戻す効果をもたらした。

それ以後は毎シーズン40~50本の新作が次々と発表されているので
とりたてて旧作を顧みる必要性も時間もなく、それぞれが見たいアニメや話題作を
自由に見ているというわりと軽薄な時代が続いてると思うのです。

ギアスやマクロスなど一部のDVDがバカ売れするけど他はサッパリみたいな
状況になってるのも、自然と人気作に注目が集中するからでしょうね。
ほとんど全作品を網羅してる強者も中にはいるでしょうが
普通の人はそんなにたくさん見ていられないですからね。


「長年にわたってANIMEを見続けてきたOTAKU、ANIMEに深くなじんだOTAKUは
もっと軽めでロマンチックで心温まるMOE作品に傾くのが自然」というのは
たしかに当然のことなのかもしれない。

アクション満載でダークやエロスの要素がたっぷりな新作をまだまだ見足りない
若いオタク層、ライトなファン層と、軽めでロマンチックな萌え作品を好む層とが
より根本的な嗜好性をも違えてしまうのも至極当然で、
近しい層や年代であってさえ継続視聴する作品の構成が違うだけで
素養が醸成される過程は個別に変化していくでしょう。なにしろ分母が大きい。
結果として最新の同じアニメを見ていても、評価が180度違ったりしてしまう。
アニメ系の板などでも他人と意見が噛み合わない場合が多いのは
各々見てきた作品やバックボーンがそもそも違い過ぎるというのが原因なのかもなと。

程度の問題ですがこういうすれ違いは昔からあった。
ただ現代はそれが今までより極端に出てしまう状況だということなんですかね。
将来的にはメタルファンとポップスファンみたいな棲み分けが必要になるのか、
あるいは製作本数が減退して昔のような状況に戻っていくのか。








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黒神、そしてキャラクターの「サガ」について  

ルルーシュ・ランペルージが多くの人の心を捉えたのは
彼がギアスという「王の力」を「手に入れたから」ではなく
彼が力を手に入れた結果「王としての魅力を発揮したから」に他なりません。

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有名な「コードギアス」第01話のギアス発動シーン
アバンで「僕はブリタニアをぶっ壊す」などの宣言があるものの
そんなことは視聴者はこの時点で忘れています。
この時視聴者が驚きと賞賛を与えるのは、
敵が自ら倒れていく異様な状況に対してではなく
窮地を逆転し、手に入れた不思議な力に満足するルルーシュの表情に対してです。
恐るべき力を手に入れた少年が、この先何を成し遂げるのかに興味がわく。
この瞬間まさに王者・ルルーシュは「誕生」したのです。

「主人公」とは何であるかという問いは
なぜこの人が選ばれたのかという命題と同義であると思います。

のび太→ドラえもんの道具を最も有効活用できるダメないじめられっ子
ルルーシュ→ギアスの力を手に入れさえすれば王として君臨できる器を持っている
坂井悠二→自分がトーチと知っても平井ゆかりやクラスメイトのために抗おうとする

視聴者は主人公が何がしかの非日常的な出来事に見舞われ物語がスタートした際
「主人公の身に一体何が起こったのか」と同じくらいの興味で
「その時、主人公が何を選ぶのか」に注目する。

つまり「立っているキャラ」というのは
「設定」として与えられた個性、肩書きや諸条件とは無関係に
「選択する力」=物語を牽引する力を必要とする。

その力を持ったキャラは、そのキャラにしかできない、
もうそのようにしか生きられない、という全存在を掛ける覚悟で選択をする。
「主人公にしかできない選択」をするから主人公たりえるわけです。

もちろんこれは、主人公が主体的・自発的に選択する場合もあれば
演出によって主人公が選択「させられる」場合もありますが、
共通して言えるのは、非日常的な出来事に見舞われるから主人公なのではなく
非日常に遭遇したうえで主人公にしかできない選択をするから主人公なのです。

これはもう、作者によって与えられた、そのようにしか生きられない、
そのキャラ特有の性(サガ)のようなもの。
即ち、立っているキャラ=サガを持っているキャラ であると僕は考えています。
まあ、僕が考えてるだけなんですけどね。



そこで「黒神 The Animation」なんですが。

主人公・伊吹慶太は仇敵である兄を追うモトツミタマ・クロと出会い
クロを狙う敵との戦いに巻き込まれて致命傷を負ったところ
クロの判断で「契約」(心臓の交換)を交わし契約者となる。

状況を把握できないまま混乱する慶太は自分を巻き込んだクロに冷淡だが
クロは兄を倒し本懐を遂げるため、慶太に一緒に戦ってほしいと請願する。

導入部の粗筋はこんなところですが
要するにこの作品の場合、主人公は当初から何も選択肢を与えられない。
本人は理不尽な運命に翻弄されるのはイヤだと思っているが
自分と関わると周囲の人がどんどん不幸になっていくので
なるべく人を遠ざけ、人と関わらないように暮らしている。

この導入部において物語を牽引するのはクロの「目的意識」のみであり、
慶太は物語のブレーキにしかなってないのです。
慶太がクロと一緒に戦うのは、クロを死なせたくないからという理由、
自分の周りの人をこれ以上死なせたくないという願いしかない。
戦いの果てに慶太が手に入れるべきものがない。
つまりこれは慶太ではなくクロの戦いでしかない。
だから謎や陰謀が渦巻いても一向に話に弾みがつかないわけです。
視聴者もクロの無事と大願成就を願う以外に感情移入のしようがなく、
その先の展開に興味を持たせられないから面白く感じない。(※)

主人公たる者は、まず非日常に際し、与えられたサガによる選択をして、
その魅力を発揮し、見るものを惚れさせなければならない。
幾多の困難を乗り越えていける新ヒーローの誕生を「予感」させなければならない。
黒神はここで失敗した。

この黒神の設定で話に弾みをつけ物語を回していくには
主人公が強引に主導権=選択肢を奪いに行く性格であるしかないと思う。
それこそ草薙素子のように「そうしろって言われてる気がする」という
動機で充分なのです。とにかく強引に物語にコミットする。
そうすることで初めて「この主人公が引っ張っていけるに違いない」と
視聴者は考えるわけです。


あらゆる物語は、非日常の扉を開けたときに始まるのですが
そこで主人公が何を選択するのか、またはさせられるのか、
主人公に与えられたサガはどんなものか。
それをきちんと見極めさせてくれる作品は、高確率で良作となります。
そして、逆もまた然り。

まあ、僕が思うだけですが。



(※)奇妙なことに、これを漫画でやるとそれほど違和感がないのです。
「作者」という大いなる意志により物語が統率されている安心感が前提としてあるので
ある程度作者を信頼して読み進めていくことができる。
そして展開次第で普通に良作になりもする。小説も同じです。

しかしこれが集団で作られるTVアニメになると、途端に安心感がなくなる。
演出の意志、脚本の意志、監督の意志など対象が散漫になり
物語が一体どこへ向かおうとしているのかに不安を感じてしまう。
これは二次的創作物の宿命かもしれません。



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