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光市母子殺害事件について僕が思うこと  

僕は現行の死刑制度自体は文明社会のあり方からいずれ廃止に向かうと思っているが
死刑制度廃止論者ではない。
日本にはかつて切腹や仇討ちといった報復哲学があり、命をもって償うという
「潔さ」を美徳とする国民感情が伝統的にあるから、死刑制度そのものを廃止に
するのにはまだまだ永い年月と議論を要すると思う。


光市母子殺害事件
'99年4月14日午後2時半頃、当時18歳の少年が山口県光市の社宅アパートに排水検査
を装って押し入り、女性を引き倒し暴行を加えようとしたが、激しい抵抗を受けたため
女性を殺害した上で強姦。泣きやまない娘を床にたたきつけ首にひもを巻きつけ絞殺。
女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋に放置し、財布を盗んで逃走。
少年は事件から4日後の4月18日に逮捕された。


高裁までの被告人側は「少年の犯行だから死刑にはならないだろう」と思っていたし
実際に無期懲役の判決も出ていた。
ところが最高裁は弁論を開くことを決定。
最高裁が弁論を開くということは、二審判決を変更する場合が多い。
二審判決の変更とは、死刑を意味する。そこで少年側は大慌て。
オウム裁判で松本智津夫被告の一審の主任弁護人を務めた死刑反対論者の急先鋒
安田好弘弁護士に依頼し20余名からなる大弁護団を結成したのが2006年の春。

被害者の夫である本村洋氏は現在「全国犯罪被害者の会」の中心的存在であり
犯罪被害者等基本法の成立に尽力した、安田弁護士から見ればまさに敵側の人物。
2000年の「改正刑事訴訟法」施行により、法廷で遺族の意見陳述が認められたことから
司法の現場では現在「死刑判決」そのものが増加傾向にある。
従来なら判例的に無期懲役が言い渡される訴訟でも死刑となるケースが出てきており、
マスメディアや国民の注目度が格別に高いこの光市母子殺害事件裁判では、
死刑制度廃止派は何がなんでも死刑判決を出すわけにはいかないのだ。
これでは被害者は到底浮かばれない。



この高裁差し戻し審がこのほどようやく始まった。
差し戻し審は、上級審の判断に拘束されるため、死刑判決の出る公算が大きい。


「弥生さんは、騒がれたため口をふさいだら誤って首を押さえ続け窒息死させた。
夕夏ちゃんは、泣きやまないので首にひもをまいて、蝶々結びにしたら、
死んでしまった」などと傷害致死罪を主張。強姦目的についても「被害者に
中学1年の時に自殺した母親を重ね、甘える思いで抱きついた」などと否定(毎日)

弁護側は殺意を徹底して否定し、傷害致死として死刑回避を主張する方針


首を押さえ続けたら窒息して死ぬなんて子供でも知っている。
首に紐をまいて結んだら乳幼児にとって危険なことぐらい誰でもわかる。
そこに殺意がなかったと弁護側はいうが
行動の結果として被害者の生死に加害者の関心が無かったというだけで
積極的に殺害しているのと何も変わらない。
殺す気がなかったのではなく大人しくなれば死のうが生きてようがどうでも
よかったのだ。自己中心的で短絡的な行動であり、酌量の余地など何処にもない。


マスコミはこぞって報道し、国民は「こんな糞みたいな奴死刑でいいじゃん」と
投げやりな感想しか持たず、判決ではその「国民感情」に「配慮」と言われ
国民感情に配慮して死刑判決が出ると今度は人権擁護派が騒ぎ出す。
何かがおかしい。
じゃあマスコミが一切報道しなければ死刑判決は出ず無期懲役になるのであり
遺族が涙ながらに口頭弁論に立たなければ裁判は判例どおりに結審し
事件と関係のない赤の他人が注目するか否かで事件の真相が変わると言うのだろうか。
こんな世の中が本当に正しい法治国家の姿なのだろうか。

弁護側は事件の真相云々よりもとにかく「死刑回避」しさえすれば実質勝利。
検察側は死刑判決が出るまで戦い続け、結審すれば終了。
マスコミと国民は死刑確定となれば事件終了。そして別の話題に移行。
本当にそれでこの事件が終了し、被害者遺族が満足するというのか。

死刑制度自体が犯罪抑止力になっているかどうかなんて
正直僕にはわからない。
少なくとも、この光市母子殺害事件に関して言えば
今の調子で裁判が終わっても事件そのものは何一つ解決しない気がする。
僕は死刑制度廃止論者というわけではない。
だから被害者遺族代表である本村洋氏が死刑判決を強く望むのであれば
僕も彼の意見に同調もするけれど

こういった事件が本当に実質的に終わりを迎えるとしたら
それはこれから先、たとえどんなに永い時間がかかっても
加害者自らが起した過ちを正しく理解し、心から後悔した時ではないのかと思う。
事件当事者でない人間は、弁護人、検事、司法関係者は無論
マスコミや国民にいたるまで
特定の主義主張のために真相を捻じ曲げることなく
どういう理由でこのような痛ましい事件が起こったのかを詳らかにし、
どのようにすればこういう事件が起こらない社会を構築できるのか、
そのために今起きている事件の加害者、被害者をどのような司法的結論に
導いていくことが正しいのか、
そういうことのために知恵を出し合うことこそが健全な社会のあり方であるはずだ。

加害者が心から後悔する時が将来に渡って本当に来るとは限らないから
多くの人は極刑を望むわけだが、それが絶対に来ないとは誰にも言い切れない。
「加害者を死刑にしてくれ」と主張する権利が本当にあるとしたら
それは被害者本人と加害者本人だけではないのか。
こう考えるのは僕の薄甘いロマンチシズムなのだろうか?

「こんな奴死刑でいいよ。死刑にしろよ」と言い募るのは簡単なのだが
本当に遺族に対して必要なケアというのは、報復感情を満たしてやることではなく
社会全体が「その事件があったことを忘れないこと」ではないかと思う。
なぜその事件が起きたのか、考える。考えてもわからないけど、考え続ける。
加害者でも被害者遺族でもない他人が、理不尽な目に合わされた被害者を哀れに思うとき、
本当に出来ることとはそれだけのような気がする。
そしてそれだけのことを、やろうとする人はあまり多くない。

凶悪犯罪者が死刑になって、ざまあみろと観客気分で面白がってるうちは
世の中からこういう痛ましい事件は一向になくならないのではないのか。


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category: 雑感

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