FC2ブログ

大匙屋

健康第一のはずが・・・

京都寺町三条のホームズ#07 ボケIN  

#07


葵(ヒロイン)が合コンに誘われたと聞き気もそぞろなホームズ(主人公)/蔵 店内ロングfix
 ⇒空気をぶち壊して突然乱入してくる秋人のカット

会話途中の何もないはずの空間に、いきなり扉らしきものがボケIN⇒OUT
秋人の背中(ボケ⇒ノーマル)がカメラを通り抜け、一瞬で場の雰囲気/カットが意味ごと変わる


いまざきいつきコンテ回。いまざきさんという人はやっぱり面白いことを考える人と思う
全体的に低空飛行なシリーズの中、#07は演出クオリティ輝いている

同スロー




■京都寺町三条のホームズ (2018 夏アニメ) http://kyototeramachi-holmes.com/

8812019007006_200560541.jpg8812019007006_200560540.jpg

設定などに良作たり得そうな潜在力は感じるんですが、脚本・作画・演出・色指定等あらゆる評価軸で頭を抱える珍作でした。前半のキモ=過去の恋愛話が主役・ヒロインの2つとも塩っぱかったのが痛かった。
いっそ恋愛要素を控えめに、ホームズの裏表のある性格などを強調してたら、もう少し面白くなったはず。
梅雨時の暇つぶしや、秋の夜長にはよいかもしれません。


スポンサーサイト

category: アニメ

tb: 0   cm: 0

3回ドカン研究 (2019)その4  


■かぐや様は告らせたい #07 (2019) https://kaguya.love/

「かぐや様~」は小俣監督本来の遊び心やシャフト要素&出崎リスペクトが炸裂した怪作/異色作でした。
作品の掲げる独特のテーマや存外にピュアな恋愛観には中年の感性では乗りきれなかったけど、やりたいことはよくわかったし、若い人を中心に人気があるのも理解できる。



といいつつ今回はかぐや様のレビューではなく、あまり人気のない三回ドカン研究シリーズ・2019年分の締めくくりとして
三回繰り返し等で現在においても使われる「リピートカット」について触れておきます。

リピートカット、すなわち繰り返しカット。同一のフッテージをただ繰り返す。機械的に。その効果と適用について。



■Report (1967年)  ブルース・コナー監督 短編映画 ‧ 13分
繰り返し繰り返し、何度も映されるケネディ夫妻暗殺前の映像

8802019006010_11027bg01.jpg
ブルース・コナー Bruce Conner(1933―2008) 前衛芸術家、映像作家
デビュー作『A MOVIE』(1958年)以降、既存フィルムの断片のモンタージュで、のちに「ファウンド・フッテージfound footage」と呼ばれる手法を開発し、後続の作家や1980年代に隆盛を極めるミュージックビデオ/MTVなどに絶大な影響を与えた。


上の動画は一部抜粋。全編はこちら(ロシアの動画サイト) <ポケモンショック注意>
※ブルース・コナーの映像作品は遺族の設立した財団の管理が厳しく、ネットにアップしてもすぐ消されることで有名

「ブルース・コナーの『レポート』では、ジョン・ケネディとジャクリーン・ケネディの夫妻がリムジンに乗ってダラスの街路を通過するニュース映画のショットが使われている。このショットは、一部あるいは全体が、何度も何度もシステマティックに繰り返されており、それが逃れられない暗殺の瞬間へと刻一刻と近づいているように感じさせ、その瞬間を待ち受ける観客の緊張感を高めている」
(デイヴィッド・ボードウェル&クリスティン・トンプソン著「フィルム・アート」)


この「システマティックに繰り返す」というのが重要なポイントだと僕は思うわけです。それこそ60~70年代、初期のアナログシンセサイザーに初めて触れた演奏家が音楽の未来を夢見たように、当時の若い映像作家たちは、コナーの作り出したシステマティックでオートマティックな映像の繰り返しに、舞台演劇や音楽ライブには真似のできない、映画にしかない、強烈な客観性を持つ映画・映像特有の表現やその可能性を見出したんじゃないか。





■Breakaway (1966)  主演・歌/トニー・バジル (ブルース・コナー監督)

1966年の作品。5分ほどの短編映画、曲は当時ダンサーとして活躍中だったバジルのデビュー曲。今でいうPVに近いかも。高速カット。そしてここでもリピートカットが多用されています。今見ても超カッコいいですよねこの映像。50年以上前の作品とは思えない





■Hold Me While I'm Naked (1966年) ジョージ・クーチャー監督 短編映画 ‧ 17分

日本では無名ですが、米国では故ヴィレッジ・ボイス紙による20世紀映画国際ベスト100の52位に選出された有名作品。チャーミングな雰囲気だけど一応ポルノ映画で、内容はいま僕らが見てもよくわからないけど伝統的ハリウッド映画のパロディ的なものらしい。恐らくアメリカ人には深く刺さる何かがきっとあるんですね。女優さんのオパーイが素晴らしいです。
8分15秒あたりから綺麗な3回繰り返し、リピートカットが使われています。

8802019006010_110270563.jpg
George Kuchar (1942~2011)
※クーチャーとブルース・コナーの関連性については今も調査中。


参考までにこれも

■ラジオスターの悲劇 Video Killed the Radio Star バグルス (1979)
1981年に開局したポピュラー音楽専門チャンネル「MTV」において放送された最初の音楽ビデオ。
ボーカルのメガネがトレヴァー・ホーン

8802019006010_110270552.jpg

後半いくつかのシーンでリピートカットが採用されてます。ブルースコナーの「ファウンド・フッテージ」が受け継がれているわけです。80年代、そしてMTVっていうとトレヴァーホーンとニューウェーブの時代だったなあと僕は思うんですよ。そしてこのビデオを監督してるのがラッセル・マルケイという人で、この方も当時、時代の中心にいた重要人物。大ヒット厨二映画「ハイランダー(1986)」の監督でもある。

8802019006010_110270558.jpg
Russell Mulcahy, (1953~)




■薔薇の葬列 (1969) 松本俊夫監督
16歳のピーター(池畑慎之介)を主役に起用した、松本俊夫監督の商業デビュー作、ATG映画。
エディ(ピーター)の身支度のカットに唐突に割り込むゲバラ(内山豊三郎)、クシャミをして付け髭が飛ぶ。ほぼ前後に脈絡のない繋ぎ方で、非常にシステマティックな3連のリピートカット。

松本俊夫監督は国内実験映画の先駆者の一人であり、60年代に怒涛のように流入したアメリカ発アンダーグラウンドシネマの洗礼を直接受けた世代。ブルース・コナーとは同年齢で、かなりの刺激を受けたはず。国際的ムーブメントの最先端を見ている、同時に走ってるわけだから、ダサいことは絶対やりたくないに決まってる。だからこそ、この3連リピートが1969年当時、先駆者松本俊夫的に「最高にイケていた」という風に想像がつく。

つまりはリピートカット、そして3回ドカンに至るオーバーラッピング編集といったテクニックが国内映画にもたらされた端緒も、どうやらこの時期あたりにあると考えて差し支えないように思いますね。




最近見た3回ドカン


■鬼滅の刃 #04 (2019) コンテ:白井俊行

エフェクトすばらしい・・・
3cut目の引きの絵でせっかくの迫力がそがれていると思うがどうか。


■狼と香辛料VR PV (2018) https://www.oculus.com/experiences/go/2360037144040771/

シンプルだけどしなやかでエレガントなダブルアクション


■Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow
 (2018 OVA)

雪像除幕。まとわりつく白幕の質感を増補しつつ除幕への期待感をたくみに煽るカット割。
時間的拡張。配置に無理のある姉妹だが、むしろ晴れやかな表情が映える。
 

category: 3回ドカン

tb: 0   cm: 0

2019冬アニメ 私に天使が舞い降りた!  

■私に天使が舞い降りた! http://watatentv.com/

8792019004005_210240110.jpg


最終話(#12)において披露されたミュージカル「天使のまなざし」は、シリーズ最後に持ってくる劇中劇として大変な力作であり完成度も高くこの最終盤にきてのスタッフ各位の頑張りには頭が下がる。これは本当にあちこち大変だったと思う。まずはその労をねぎらいたい。


8792019004009_010330490.jpg8792019004010_220060410.jpg


劇の脚本はこの妙に色っぽい山中先生のオリジナルという体で、この点は#11夏音の台詞を使って強調されている。
山中の音楽的才能、演出力や企画総合プロデュース能力の高さなどは「天使のまなざし」本編が事実上イメージカットのみで構成されるため、公平な判断はできない。

ただこの山中には「天使のまなざし」に仕込んだひとつの明確なメッセージがあり、そのことに主演の白咲 花がそれなりに強く反発の意志を示している点は指摘しておきたい。アニメ「私に天使が舞い降りた!」(全12話)について語るべき点は他にも幾つかあるが、この作品のキモを理解するためには重要なポイントと思う。


#12 
8792019004009_010320290.jpg8792019004009_010330200.jpg


終劇後、誰もが劇の余韻に浸り天使気分を満喫する中、ひとり先に着替えてしまっている白咲 花。このシーンはわずか数カットで花ちゃんの登場も少なく、その事実も目立たないように工夫/隠ぺいされているけれど、彼女の明確な意思表示がここにある。
実のところ、花ちゃんは主演として役を演じきったものの、もうアネモネの恰好ではいたくなかったのです。


8792019004010_220160370.jpg8792019004010_220160390.jpg8792019004010_220160360.jpg

デイジーに拒絶されたアネモネは、神様の力を借り天使をやめてまでデイジーに寄り添おうとするが、そこまでしてもデイジーに再会することさえかなわない。
まるで呪詛のように作品は徹底して語りかける。「天使と人間は決して同じ時間を生きることはできない、何があろうと絶対にできない」
そして

8792019004010_220100520.jpg

「みんなが幸せになるのは全員死んであの世に行ってから」


改めて小学生に味わわせるには、多少なりとも過酷な、毒気に満ちた内容。たかだか文化祭のクラス演劇で、こうも無慈悲なオリジナル劇をやる必要はそもそもない。適度にハッピーエンドで話がまとめられていても、観客は一向に構わないはず。脚本を書いた山中先生がこの展開にこだわったのには、彼女なりに表現したい何かがそこにあったからと考えるべきです。

つまりこれは山中先生が1年ごとに目の前を通り過ぎていくキラキラした小さな可愛い「天使たち」に日々抱いている裏返しの感情なわけです。長期的な視点で成長を見守っていくことが職務上できない虚しさ。私の前に毎年のように天使は舞い降りる、もっと君たちと一緒にいたい、でもそれは叶わない。私とみんなの間には断絶があるよ、私はこんな風にも感じるんだよっていう。
「天使のまなざし」の物語には、山中先生の抱える感傷というかペーソスのようなものが紛れ込んでいる。


8792019004010_220160350.jpg


一方で白咲 花は、<デイジーに愛されるために天使をやめる選択をするアネモネ>に共感できない。
花ちゃんはお姉さんがいつか自分に飽きてしまうことをわりと極端に恐れている。お姉さんが自分の何を気に入り、可愛がってくれているのかがわからない。容赦なく時間は流れ自分も否応なく成長していく、もしいつかお姉さんに飽きられてしまった時、花ちゃんには「お姉さんに愛されるために天使(=今の自分)をやめる、変える」といった選択はできない。天使でなくなった自分が引き続きお姉さんに愛されるとは限らないから。

なので「天使と人間は同じ時間を生きることはできない」という劇をお姉さんに見せるのは、花ちゃんにとって実は大変都合が悪い。

花ちゃんは問う、無理をしてまで、そんなにお姉さんはあの劇が見たかったのかと。
自分が共感できないあの劇を、お姉さんはどう見たのか。
お姉さんはどんな私を求めているのか。どうすれば私はお姉さんに愛され続けるのか?

8792019004010_220150560.jpg8792019004010_220150460.jpg


そしてみゃー姉はいつも通りのみゃー姉でした。
花ちゃんは、まったく成長も変化も見せないみゃー姉の「抜群の安定感」に最後まで押し切られる。
この思惑のズレ、微妙な噛み合わなさこそが、「私に天使が舞い降りた!」の本質であります。


#12はミュージカルの完成度もさることながら、それを活かして白咲 花の微妙な感情の揺れに焦点を当てている点が本当に見事なのです。

category: アニメ

tb: 0   cm: 3